志田千陽の小学校は八郎潟!当時の成績やバドミントンを始めたきっかけ
パリオリンピックでの女子ダブルス銅メダル、本当に感動しましたよね〜!テレビの前で叫んじゃった人も多いんじゃないでしょうか?私もその一人です(笑)。
コート上での鬼気迫るプレーと、試合が終わった後のアイドルみたいな可愛い笑顔。そのギャップに世界中がメロメロになっちゃってますが、ふと気になりませんか?
「あんなに可愛くて強い選手、一体どんな子供時代を過ごしたら誕生するの?」って。
実は志田千陽選手、小学生の頃から地元・秋田では知らない人がいないくらいの「超・天才少女」だったんです!
今回は、そんな彼女のルーツである小学校時代にタイムスリップして、伝説級の成績や、バドミントンを始めた意外なきっかけについて、私が徹底的に調べ上げた情報をシェアしちゃいますね。
「えっ、そんなに小さい頃から戦ってたの?」と驚くこと間違いなしですよ!
- 出身小:秋田県の八郎潟小学校!自然豊かな町で育ちました。
- デビュー:なんと幼稚園の年長さん(6歳)からスタート!
- 伝説:小学校時代に「東北大会3連覇」という偉業を達成。
- ライバル:あの山口茜選手とは、小5の頃からバチバチの関係!?
志田千陽の小学校は八郎潟!当時の成績と所属チーム
まずは、志田選手のバドミントン人生がどこから始まったのか、その原点となる場所やチームについて詳しく見ていきましょう。
秋田県ってバドミントンがすごく盛んなイメージがありますけど(ナガマツペアも秋田出身ですしね!)、志田選手が育った環境もまた、彼女の才能を伸ばすのに最高の場所だったみたいですよ。
出身小は八郎潟小学校!所属はレイクジュニア
志田千陽選手が通っていた小学校は、秋田県南秋田郡にある八郎潟町立八郎潟小学校(はちろうがたしょうがっこう)です。
八郎潟町といえば、かつては琵琶湖に次ぐ日本第二の広さを誇った湖「八郎潟」があった場所として有名ですよね。干拓によって広大な田園風景が広がる、本当にのどかで空気が美味しい町なんです。そんな自然豊かな環境で、志田選手はスクスクと育ちました。
そして、彼女のバドミントン人生を語る上で絶対に外せないのが、所属していた地元のスポーツ少年団「八郎潟レイクジュニア」の存在です!
「レイク(湖)」って名前がついているのが、地元愛を感じて素敵じゃないですか?
実はこの八郎潟町、人口6000人ほどの小さな町なんですが、バドミントン熱がものすごく高い地域なんです。レイクジュニアも地元では強豪として知られていて、熱心な指導者の方々や、一緒に汗を流す仲間たちがたくさんいました。
私の想像ですが、放課後になるとランドセルを玄関に放り投げて、「行ってきまーす!」って体育館へダッシュしていたんでしょうね(笑)。
トップアスリートって、最初から特別な施設で英才教育を受けているイメージがあるかもしれません。でも志田選手の場合は、こういった「地域の温かいコミュニティ」の中で、バドミントンの楽しさを知り、基礎を固めていったんです。
地域のおじちゃんおばちゃんたちも、「千陽ちゃんは筋がいいねぇ〜」「将来はオリンピック選手だ!」なんて言いながら、みんなで成長を見守っていたんじゃないかなと思います。まさに「地域が育てた宝」って感じですよね。
バドミントンを始めたのは幼稚園年長6歳の頃
では、具体的にいつからラケットを握り始めたのか?気になりますよね。
なんと、幼稚園の年長さん(6歳)の頃からだそうです!
「えっ、6歳!?」って驚きませんか?
6歳といったら、まだ自転車の補助輪が外れるか外れないか…くらいの時期ですよ(笑)。そんな小さな体で、自分と同じくらいの長さがあるラケットを振り回していたなんて、想像しただけで可愛すぎますよね。
でも、アスリートの世界ではこの「早期教育」ってすごく重要みたいなんです。特にバドミントンは、シャトルの初速が球技最速と言われるほどスピードが速いスポーツ。動体視力や反射神経、ラケットワークの感覚といった「身体知」は、幼少期から遊び感覚で身につけるのが一番だと言われています。
志田選手の場合も、最初はきっと「競技」というよりも「遊び」の延長だったはずです。
「シャトルをポンって打てた!楽しい!」「もっと遠くに飛ばしたい!」
そんな純粋な好奇心が原動力になっていたんじゃないでしょうか。
幼稚園児の頃から体育館に通い、お兄ちゃんお姉ちゃんたちに混ざってシャトルを追いかける日々。そこで培われた「シャトルへの感覚」や「コート内での身のこなし」が、今のあの華麗なプレーの土台になっていることは間違いありません。
ちなみに、6歳から始めているということは、小学校に入学する時点で既に「経験者」だったわけです。同級生がラケットの持ち方を習っている横で、きっと志田選手はビュンビュンとスマッシュ(のようなもの)を打っていたかもしれませんね!
きっかけは3歳上の姉・裕喜子さんの影響
6歳でバドミントンを始めた志田選手ですが、そもそも何がきっかけだったんでしょうか?
そのキーパーソンとなるのが、3歳年上のお姉さん、志田裕喜子(ゆきこ)さんです!
前回の記事でも紹介しましたが、お姉さんはミス・ユニバース秋田のファイナリストにも選ばれた超美人さん。そんなお姉さんが、先に「八郎潟レイクジュニア」でバドミントンを習っていたんです。
当時の志田選手はまだ幼稚園児。「お姉ちゃんだけズルい!私も行きたい!」ってなったのか、それともお母さんに連れられて見学に行ったのか…。
とにかく、お姉さんの練習について行って、体育館の隅っこで遊んだり、見様見真似でラケットを振ったりしていたのが全ての始まりでした。
これって「アスリートあるある」ですよね!
大谷翔平選手もお兄さんの影響で野球を始めましたし、フィギュアスケートの浅田真央さんもお姉さんの舞さんの影響でした。
やっぱり身近に「楽しそうにプレーしているお手本」がいると、子供は自然と興味を持つものなんです。
志田選手自身も当時のことを振り返って、「お姉ちゃんがやっていて楽しそうだったから、自分もやってみたいと思った」という趣旨の話をされています。
もしお姉さんがバドミントンではなく、ピアノや水泳を習っていたら…今の「バドミントン選手・志田千陽」は誕生していなかったかもしれません。そう考えると、きっかけを作ってくれたお姉さんには感謝してもしきれませんね!
そして、「お姉ちゃんに勝ちたい!」という妹特有の負けず嫌いな性格も、上達を早めた大きな要因だったはずです。姉妹で切磋琢磨できる環境があったからこそ、メキメキと実力をつけていったんでしょうね。
小学校4年から東北大会3連覇!圧倒的な成績
さて、ここからがいよいよ「伝説」の始まりです。
遊び感覚で始めたバドミントンでしたが、志田選手の才能はすぐに開花しました。その強さを証明するデータとして一番わかりやすいのが、小学校時代の大会成績です。
なんと、小学校4年生、5年生、6年生の「東北小学生バドミントン大会(東北ブロック予選)」において、女子シングルス3連覇を達成しているんです!
これ、サラッと言ってますけど、めちゃくちゃ凄いことなんですよ?
東北地方って広いですからね。青森、岩手、宮城、秋田、山形、福島…。各県から勝ち上がってきた猛者たちが集まる大会です。特に青森や福島はバドミントンの強豪県としても知られています。
そんなハイレベルな環境の中で、3年間一度も負けずに頂点に立ち続ける。
「東北に志田あり」「秋田の志田千陽には誰も勝てない」
当時はそんな風に恐れられていたんじゃないでしょうか。
特に小学生の大会って、その日の体調やメンタルで結果が大きく左右されることが多いんです。まだ子供ですから、緊張して実力が出せないことだってあります。
でも、志田選手は違いました。常に安定して勝ち続ける「勝負強さ」と、ライバルたちを寄せ付けない「圧倒的な技術力」をこの頃から持っていたんです。
小4で優勝した時、「あの子誰?凄くない?」と会場がざわついた光景が目に浮かびますよね。そして小5、小6と連覇を重ねるごとに、その名は全国へと轟いていきました。
まさに「無敵の女王」状態。地元の八郎潟町でも、「千陽ちゃんがまた優勝したらしいよ!」と、新聞や回覧板で話題持ちきりだったに違いありません。
全国3位で戦った宿敵・山口茜とのライバル関係
東北を制覇した志田選手が次に目指したのは、当然「全国制覇」です。
そして、その全国の舞台で運命的な出会いが待っていました。
小学5年生の時に出場した「全国小学生バドミントン選手権大会」。
志田選手は順調に勝ち上がり、見事全国ベスト4(第3位)に入賞します。全国3位ですよ?普通の小学生なら一生自慢できる快挙です。
でも、志田選手にとってこの大会は、きっと「悔しさ」の方が大きかったかもしれません。
なぜなら、準決勝で立ちはだかった壁が、あの山口茜(やまぐち あかね)選手だったからです!
山口茜選手といえば、後に世界ランキング1位に君臨し、世界選手権も連覇した日本バドミントン界の至宝。実は志田選手と山口選手は同い年(同学年)なんです。
この時の準決勝で二人は激突し、結果は山口選手の勝利。志田選手は涙を飲みました。
でも、考えてみてください。
小学生の時点で、後の世界トップランカー同士が全国大会の準決勝で戦っていたなんて…漫画みたいな展開じゃないですか!?
「神童」と呼ばれた山口茜選手と、「東北の怪物」だった志田千陽選手。二人のライバル関係は、この頃から始まっていたんです。
ここがポイント!
- 山口茜選手は福井県代表、志田選手は秋田県代表。
- お互いに「強い奴がいる」と意識し合っていたはず。
- この敗戦が、「もっと強くなりたい!」「次は絶対に勝ちたい!」という志田選手の闘志に火をつけたのは間違いありません。
もしこの時、簡単に優勝できていたら、そこで満足してしまっていたかもしれません。
「上には上がいる」ということを身を持って知ったこの経験こそが、志田選手をさらに高いレベルへと押し上げる原動力になったんですね。
当時からの武器は柔軟性と粘り強いプレー
小学生時代の志田選手がなぜそこまで強かったのか?
当時の指導者や関係者の証言を総合すると、彼女の最大の武器は「驚異的な柔軟性」にあったようです。
志田選手、身体がめちゃくちゃ柔らかいんです!
バドミントンにおいて柔軟性は超重要スキル。なぜなら、厳しいコースに打たれたシャトルを拾う時、股関節や肩甲骨が柔らかいと、ギリギリまで身体を伸ばして届かせることができるからです。
当時の志田選手のプレースタイルは、まさに「粘りのバドミントン」。
相手が「決まった!」と思うようなスマッシュを打っても、志田選手は驚くような体勢から拾って返してくる。
「なんであれが返ってくるの!?」と相手が焦ってミスをする…そんな展開が多かったんじゃないでしょうか。
また、柔らかい筋肉は怪我の予防にもなりますし、しなやかなフォームから繰り出されるショットは、見た目以上に鋭く伸びてきます。
この「天性の柔軟性」に加えて、負けず嫌いな性格からくる「絶対に落とさない!」という執念。
「どんなに振られても食らいついていく」
現在の国際大会で見せる、あの泥臭くて熱いラリーの原型は、小学生時代にすでに完成されていたんですね。
可愛い顔をして、コートの中では誰よりも粘り強く、誰よりも諦めない。そのギャップこそが、志田千陽という選手の真骨頂なのかなと思います。
志田千陽は小学校卒業後に青森山田へ!決断の理由
さて、小学校時代に輝かしい成績を残した志田選手に、人生最大の分岐点が訪れます。
それは小学校卒業のタイミングでの「進路選択」です。
地元の八郎潟中学校に進んで、地元の仲間たちとバドミントンを続ける道もありました。
でも、彼女が選んだのは、地元を離れて遠く青森の地へ行くこと。まだ12歳の少女が下した、あまりにも大きな決断について深掘りしていきましょう。
地元を離れて強豪の青森山田中学校へ越境入学
志田千陽選手が進学先に選んだのは、バドミントンの名門中の名門、青森山田中学校(青森県)でした。
青森山田といえば、サッカーや卓球(福原愛選手や水谷隼選手など!)でも有名ですが、バドミントン部も全国屈指の強豪校です。
全国から「将来のオリンピック選手」を目指す金の卵たちが集まり、寮生活を送りながらバドミントン漬けの日々を送る…まさに虎の穴。
秋田県八郎潟町から青森山田中学校までは、車で片道3時間以上かかる距離です。
つまり、自宅から通うことは不可能。それは「実家を出て寮に入る」ことを意味していました。
12歳で親元を離れる決意をした向上心と理由
みなさん、ちょっと想像してみてください。
自分が12歳だった頃、親元を離れて一人で暮らすなんて考えられましたか?
私なら絶対に無理です!お母さんのご飯が食べられないなんて耐えられないし、夜寂しくて泣いちゃう自信があります(笑)。
でも、志田選手はその道を選びました。
なぜそこまでしたのか?その理由はただ一つ。
「もっと強くなりたい」「もっと高いレベルでやりたい」という、純粋かつ強烈な向上心があったからです。
「東北で勝つだけじゃ満足できない。全国で勝ちたい。山口茜ちゃんに勝ちたい。そして世界へ行きたい。」
そんな思いが、寂しさや不安を上回ったんでしょうね。
地元の環境も素晴らしかったですが、やはり全国から猛者が集まる青森山田の練習環境は別格です。
ライバルたちと毎日競い合い、ハイレベルな指導を受けることで、自分の限界をもっと伸ばせるはずだ…小学生にしてそこまで自分の将来を見据えていたなんて、精神年齢が高すぎますよね。
「可愛い子には旅をさせよ」と言いますが、自ら旅に出ることを志願した志田選手の勇気には、本当に頭が下がります。
娘の挑戦を支えた両親の覚悟と週末のサポート
この決断、本人も凄いですけど、それを許可したご両親の覚悟も相当なものだったと思います。
まだ中学生になったばかりの娘を手放す寂しさ、心配…。「本当に行けるの?」「途中で帰りたくならない?」と、何度も確認したかもしれません。
でも、ご両親(住職のお父様・憲昭さんと、お母様)は、娘の夢を一番に考えて背中を押しました。
そして、ただ送り出すだけじゃなく、その後のサポートがまた泣けるんです。
なんと、お父様は週末のたびに秋田から青森まで、車で会いに行っていたそうなんですよ!
雪深い北東北の道を、片道3時間以上かけて。
往復で半日仕事です。それでも、厳しい練習に耐える娘の顔を一目見るために、洗濯物を受け取ったり、好きなお菓子を差し入れたりするために、毎週通い続けたんです。
寮生活でのホームシックは、きっとあったはずです。電話越しに泣いた夜もあったかもしれません。
そんな時、週末にお父さんやお母さんが来てくれることが、どれだけの心の支えになったか…。家族のこの献身的な愛があったからこそ、志田選手はバドミントンに集中し続けることができたんですね。
地元・八郎潟町から名誉ある町民栄誉章を授与
こうして地元を離れて戦い続けた志田選手ですが、故郷・八郎潟町との絆が切れたわけではありません。
むしろ、離れていたからこそ、地元の人々の応援はより一層熱いものになりました。
「八郎潟から世界へ!」
町の人々にとって、志田選手はずっと「地元の誇り」であり続けました。
そしてパリオリンピックでの銅メダル獲得という快挙を受け、八郎潟町は志田選手に「町民栄誉章」を授与することを決定したんです!
これ、めちゃくちゃ凄いことなんですよ。
八郎潟町で町民栄誉章が授与されるのは、1988年ソウルオリンピックのレスリング金メダリスト・佐藤満さん以来、なんと史上2人目の快挙なんです!
(出典:秋田魁新報『志田千陽選手に町民栄誉章 八郎潟町、佐藤満さん以来2人目』)
約36年ぶりの英雄誕生に、町中がお祝いムード一色!
凱旋パレードや報告会には、小学校時代の同級生や恩師、近所のおじちゃんおばちゃんたちが駆けつけ、「千陽ちゃん、おめでとう!」「よく頑張ったね!」と涙を流して喜んだそうです。
志田選手も「生まれ育った八郎潟町からの賞は特別に嬉しい」と語っています。
どんなに遠くへ行っても、どんなに有名になっても、彼女の原点はここにある。その絆の強さに、胸が熱くなりますね。
まとめ:志田千陽の小学校時代と経験がメダリストの原点
ここまで、志田千陽選手の小学校時代のエピソードを深掘りしてきました。
6歳でラケットを握り、お姉さんの背中を追って始まったバドミントン人生。
レイクジュニアでの楽しい日々、東北大会3連覇という圧倒的な実績、そして山口茜選手というライバルとの出会い。
12歳での大きな決断と、それを支え続けた家族の愛。
これら全ての経験がパズルのピースのように組み合わさって、現在の「強くて美しいメダリスト・志田千陽」が形作られたんですね。
「天才」という言葉で片付けるのは簡単ですが、その裏には幼い頃からの積み重ねと、大きな覚悟があったことを知ると、応援にもっともっと熱が入っちゃいますよね!
これからも、八郎潟町が生んだ世界のスター、志田千陽選手から目が離せません!
